戦後の地方自治体の財政事情はきわめて悪く、半田市もその例外ではなかった
海に面し、自然的条件に恵まれた本市は県競走会の設立に足並みをそろえて
また
当初から同競走会の発起人に加わり、競艇事業に大きな熱意を傾けてきた
1951(昭26)年6月18日:国会においてモーターボート競走法が成立された日
臨時市議会も開催され競走場設置特別委員会が設けられ、競艇事業への第一歩を踏み出した
1951(昭26)年10月1日:社団法人愛知県モーターボート競走会設立認可
1952(昭27)年8月25日:半田市申請の「海面使用の件」に対し愛知県知事より許可がおり
本市のモーターボート競走事業の開催が確定した
同年10月の市制施行十五周年記念行事には、モーターボート競走の模擬レースが半田港で行なわれ
舟券も発行するなど本番さながらのレースを展開した
観衆は、当時すでにあった競輪、競馬とは異なったスリルを満喫して
近い将来、誕生する「半田競艇」へ大きな期特を寄せた
1953(昭28)2月11日:競艇場陸上施設の起工式が、建設地である当時の北新田地内で盛大に行なわれ
式のあと愛知県出身の四選手(後藤盤谷、筒井三治、伊藤昭次、下村鈴子)による試走会が行なわれ式典に花を添えた
1953(昭28)4月4日:半田競走場(施行者:半田市)初開催
(東海地方では三重県津競艇に次いで二番目の開催)
午前九時、晴天にての開会式
十時、白、黒、赤、青、黄、緑の六艇がスタートラインに並び1,800mのレースが展開される
初レースで早くも五千円台、最終の十二レースでは一万円台のアナが出るなど
つめかけた二千余の観衆は、レースに酔いしれ初日を終了する
舟券のは単勝式、複勝式、連勝式の三種類
五日間の第一節では、14,359人が入場し、794万円の売上高を記録(当初の予想には届かず)
半田競艇開催から3ヵ月を経過した昭和28年7月10日
隣接の常滑市でも競艇事業が開催されることになり入場者の減少を心配したが
競艇ファンはかえって増加の一途をたどり、売上高の向上をはかることにもなり
心配とは逆にうれしい結果がでた
昭和30年8月には、三河の蒲郡市に県下三番目のレース場ができ
競艇人口はますますふえ盛況をみるに至る
昭和31、32、33年と年を追って事業成績も伸び、収益金は公共施設の整備に大きく貢献
以来、昭和34年9月の伊勢湾台風まで、半田市単独で開催してきた
1959(昭34)9月26日夜半:台風(伊勢湾台風)が競艇場をも襲う
手控え室の一棟をわずかに残すのみで、他の建造物、諸器機、書類等すべてを流失
陸上施設が建っていた敷地は、一夜のうちに白砂の荒野と化してしまった
本市は、この台風で競艇場ばかりでなく、全市が壊滅状態という空前の被害を受けた
緊急市議会で、深津市長から
「競艇事業は、現在本市の大きな財源ではあるが他に優先的復興事業があるのでこの際思い切って廃止にふみ切る」
との廃止の旨の提議があり、半田市単独の競艇事業の廃止が確定した
1959(昭34)9月26日:半田競走場閉鎖(廃止は1959(昭39)年3月31日付)
施行権はその後も保持していたので
隣接の常滑市に対して同市のレース場使用を申し入れ協力を得
昭和39年7月からは常滑競艇場で、半田市営を一ヵ月に二日間開催して現在に至る
<昭和53年度・常滑市・半田市主催・連勝複式勝舟投票券>
愛知県半田市
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